川崎の事件を受けて、思うこと。
川崎の殺傷事件、犯人の動機は不明なまま死亡。
犠牲になったのは、女の子と男性・・・・。
何で死ななきゃいけなかったんだろう・・・。
僕にも家族がいて、もし同じように巻き込まれて亡くなったら、犯人の事は一生許せないと思う。
犯人は推測では「無敵の人」と呼ばれる人。
「無敵の人」は、背負うものが一切何もなくて、ブレーキが一切ない人。
そんな人が、何を思って殺傷したのか。
ラブホの上野さんが、考察していました。
彼は誰かに自分の存在を知って欲しかった。
自分が生きていたという痕跡をこの世に刻みつけたかった。
それこそが彼の望みであったのだと私は思います。
彼は私たちに存在を認知して欲しかったのです。
他者を殺傷するという最悪の手段が人から認められることだったのでしょうか。
犯人は、事件後に亡くなりました。
ふざけるなよ・・・。
テロじゃないか・・・。
何人も巻き込んで殺傷する自爆テロと何が違うんだよ・・・!!
事件後に、犯人に対しての非難の言葉を控えてほしいというのもあった。
そのためにも、社会はあなたを大事にしているし、何かができるかもしれない。社会はあなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない、という強いメッセージを発していくべき時だと思う。
理屈として、正しい。
無敵の人は、社会のセーフティーネットが防いでくれる。
ただ、残された遺族の前で、この言葉が言えるのだろうか・・・。
僕は言えない・・・。
自分の家族が、理不尽な凶刃にかかってしまったら、ただただ、悲しい・・・。
だから、上野さんが言うように、犯人が求めていた
「社会への認知」
「自己の存在の証明」
それを認めない事、凶行に走った犯人に何も与えない事が繰り返さないことにつながるんじゃないか。
川崎市登戸の殺傷事件の犯人の目的が、人々の記憶の中で生き続けることであるなら、この卑怯者のパーソナリティーは抹殺してしまった方がいいような気がする。ニュージーランドのテロで「男に何も与えない 名前もだ」とアーダーン首相が言ったように。卑怯者による悲惨な事件を繰り返させない為に。
— 嘉門福美 (@kojizo2010) 2019年5月28日